間島は現在の中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州、白頭山(長白山)の北東から豆満江(図們江)北西岸の一帯である。

 間島は19世紀以降中朝間で国境問題が取り沙汰されてきたが、1909年の「間島協約」により中国領となる。満州事変後は日本軍が占領し、満州国成立後は間島省が置かれるが、抗日運動の拠点となるという歴史的経緯を持つ土地である。

 この地域は古来より朝鮮半島からの移住者が多数往来していたが、1627年に清と朝鮮の間で「江都会盟」が締結され、中朝国境は豆満江に定められた。しかし1881年、清朝は朝鮮人の間島への移住開墾を奨励する政策を取る。その際中朝の国境が改めて問題となり、1897年の大韓帝国成立後も国境問題は解決しなかった。

 日露戦争後に日本は韓国を保護国とすると、1907年間島の朝鮮人保護を名目に竜井村に韓国統監府臨時間島派出所を設置。しかし日本の進出に危機感を持っていた中国政府は大きく反発し、結局日本側が譲歩する形で1909年に「間島協約」を締結。間島は正式に中国領となった。その結果派出所は撤退し、代わりに日本の領事館が置かれることとなった。

 本地図を作製した間島普通学校は、1908年派出所の監督の元に設立された学校である。生徒の大半は朝鮮人であったが、日本人が校長を務め日本語や修身を教える教育を行っていた。残念ながら本地図が作製された明治44年は「間島協約」締結後で中国領となっていたため、当時の詳細な活動内容はわかっていない。

 本地図で描かれているのは白頭山から北に伸びる老齢山脈を挟んで北は老爺嶺、水泉子地方を東端とする「北間島」地域と、富爾河付近を西端とする「西間島」地域である。

 地図には道路、河川、地名が詳細に記載されている。また「古城址」「古墳」「古佛」など遺跡の位置が記号で記されており、普通学校にて遺跡調査が行われたことがうかがえる。また「尚義社」「起雲社」など、1881年以降清朝が朝鮮人農民の定住を推進するためを設立した開墾社の名称と境界が記載されている。

 間島地方の地図としては、19世紀末中朝国境問題が発生した際に韓国政府が制作したほか、陸地測量部による白頭山周辺の五万分一図や満州国成立後に間島省の地図が制作されたが種類は多くなく、貴重な外邦図であると言える。

間島大地図

¥540,000

間島普通学校 明治44年

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