昭和7年から19年にかけて大川周明が差出した書簡26点及び葉書9点。全て名古屋市の水谷源次郎宛。

 差出年の内訳は昭和7年2通、10年1通、11年1通、13年5通、14年6通、15年4通、16年7通、18年2通、19年1通、消印の数字が判別できないものが6通ある。

 残念ながら調べた限りでは、水谷源次郎が如何なる人物か特定することが出来なかった。ただ、大川とかなり親しい間柄であったことは間違いないと言える。

 「大川周明日記」(岩崎学術出版社)には水谷の名前が8回登場する。①昭和13年12月8日「名古屋の水谷鬼頭両氏来泊。」、②昭和15年1月21日「夜名古屋の水谷・鬼頭両君来り、歓談して辞し去る。」、③昭和18年4月12日「鬼頭・水谷両君来訪、ホテル食堂にて中食を共にす。」「八時半鬼頭・水谷君に送られて帰宿。」、④昭和18年5月1日「水谷源治郎君及び第一書房齋藤君来る。」、⑤昭和18年5月3日「夜、水谷君辞去す。」、⑥昭和18年10月10日「夕名古屋の水谷君来り夕食をともにして帰る。」、⑦昭和18年12月28日「留守中に名古屋の水谷君、魚・蜜柑・野菜及び佐橋君よりの饅頭を齎らして来り居れり。株にて損失し、収入の途を得なければならなくなれる故相談に来れりと言ふ。予の下にて働きたしと言ひしも予は同君を要する仕事なき故齋藤貢君に相談せよとすゝむ。」、⑧昭和19年5月24日「水谷君より玉葱、しゃうが。」。

 日記によると、水谷はかなり頻繁に大川の元を訪れ食事を共にし、時には大川宅に宿泊している。また大川が名古屋を訪れた際には水谷が出迎えている(昭和18年4月12日)。昭和18年12月28日には、水谷は大川に仕事の斡旋を依頼するものの断っているところから、仕事とは離れた純粋な友人関係と見てよいだろう。

 書簡の内容は身辺雑記が主。時局に対する決意や著作について、また水谷はよく大川に贈り物をしておりその返礼も多い。興味深いところでは日記に登場する鬼頭氏の縁談に関するもので、大川の地元酒田の女性を鬼頭氏に紹介したりしている。

 用件のみのものもあるが、全体的にその筆致には親しみが感じられる。思想面が注目される大川のプライベートな側面をうかがい知ることができる書簡である。