最近私は「古書の値段は一体何を表しているのか」ということに関心を持っています。

例えばネットで「吾輩ハ猫デアル」の初版について検索してみると、2015年に一誠堂さんが3冊で350万円という値段をつけていたという記事がでてきます。またヤフオクでは、2012年に50万円で落札された記録が残っていました。もちろん状態の違いなどもあるでしょうが、同じ本であるのに一誠堂さんのものはヤフオクのものより7倍価値が高いと言えるのでしょうか。また35万円の古書、例えば森山大道の「狩人」の相場がだいたいその辺りですが、「狩人」の価値は「吾輩は猫である」の10分の1であると言えるのでしょうか。

そんなことを言うと、きっと「店の信頼の違いだ」「比べることがナンセンスだ」と返ってくるでしょう。もちろん正しいのですが、であるならば古書の値段とは一体何を反映しているのでしょうか?

値段の意味を知るためには、まずお金について知らなければいけない。私はそう思い、年末年始にフェリックス・マーティン著「21世紀の貨幣論」(東洋経済新報社)という本を読みました。本書を簡単に紹介すると、著者は「物々交換から貨幣の歴史が始まった」という物語から始まる一見説得力のある「標準的な貨幣観」を退け、ヤップ島の石貨フェイや1970年代のアイルランド金融危機から生まれた小切手決済システムを例とする「譲渡可能な信用」こそが「マネー」の本質である、と説きます。その観点から古代ギリシャからリーマン・ショックまで「マネー」の歴史を読み解いたのが、本書の内容です。経済学は全く門外漢の私ですが、非常に勉強になった一冊でした。

さて「21世紀の貨幣論」の中で、著者は「ドルやユーロ、円とは一体何か」について、次のように述べています。

 ドルとはいったい何か。ポンドとは、ユーロとは、円とは何なのか。といってもドル紙幣や円紙幣のことではない。ポンド硬貨やユーロ硬貨でもない。ドル、ポンド、ユーロ、円そのものの話だ。(中略)

そう、測定単位である。抽象的なものさしに任意に刻まれた目盛りというわけだ。メートルやキログラムと同じように、ドルそのものは物理的な何かを表すものではまったくない。(中略)

ドルが測定単位であるなら、それは何を測っているのだろう。表面だけを見れば、答えは簡単だ。「価値」である。もっと厳密に言うなら、経済的価値だ。(中略)

私たちは何かを決めるときには、さまざまな価値の概念に基づいて判断する。記念建造物を保存するのは、それに歴史的な価値があるからである。絵画に感嘆するのは、絵に芸術的な価値があるからだ。(中略)祖母の安物の宝飾品を大切にとっておくのは、情緒的な価値があるからである。これはどれも用途が限定された価値の概念だ。つまり、それぞれの領土の中では支配者でいられるが、そこから一歩出ると、治世はおよばない。(中略)

経済的価値という概念は広く行き渡っている。(中略)経済的価値という概念があてはまるのは、ある特定の物理的な特性を持つもの、例えば温度、長さ、質量などを持つものだけではない。少なくとも理屈の上では、ありとあらゆるものにあてはめることができる。財には経済的価値がある。だが、サービスにも経済的価値がある。三次元の物理空間上に存在するものである必要はない。「時は金なり」だ。抽象的なものを貨幣価値に換算して評価することも珍しくない。「成功にはどのくらいの値打ちがあるか」という言い方もする。

かなり長い引用になってしまいましたが、要約すると、ドルや円とは経済的価値を測る単位である、ということです。私たちは1万円札や100円玉という物理的な貨幣に慣れ親しみすぎて、1万円紙幣や100円硬貨こそが1万円であり100円であると思い込みがちです。しかし1万円紙幣はあくまでも日本銀行によって1万「円」という経済的価値が与えられた信用でしかありません。信用を交換するシステム、このことが「マネー」の本質であるというわけです。

余談ですが「値段」と「価格」という語を分解してみると、両方とも「あたい」の「等級」という意味になりますね(将棋・柔道の「段」や「家格」など)。その意味で日本語の「値段」「価格」という単語は、価値の単位であることを最初から示していました。

本題について考えると、古書は「本」という物理的な存在だけではなく、目に見えない情動的価値、美的価値、本の状態、歴史的価値(例えば誰が旧蔵していたか)があり、さらには店の信用、物価や景気、流行や需要という外的要素もある。それぞれの要素が経済的価値に影響を与えるものの、イコールで結ばれるわけではありません。また店主の知識と経験によって、目盛りの幅が違ってくるということもありえます。例えば10年前の私は和本を見ても全部同じに見えましたが、今ではほんの少しですが見分けがつくようになりました。知識と経験を積んでいくと、メートル幅だった目盛りがセンチ、ミリへと細かく測れるようになると言えそうです。

以上を踏まえて最初の疑問に立ち返ると、古書の値段とは「本に内在する様々な価値や外的要素を、店主が『円』という経済的価値の単位で測ったサイズである」と言えるでしょう。

例えば古書店で50年前のとある絵本を販売したとする。ある客にとってはその本は子供の頃読んだ懐かしい本で情動的価値は非常に高いが、古書店主にとっては数ある商品のうちの一つであり情動的価値は低い。絵本のイラストの美的価値について店主は高く評価するが、客にとっては重要な点ではない。情動的価値も美的価値もそのサイズはお互いの頭の中にしか無く、言葉でしか表現できない。このままでは取引にならないので、絵本を「円」という共通の目盛りで測り、店主と客のサイズ感が一致すれば売買は成立するし、店主が測ったサイズが大きすぎれば客にとっては「高すぎる」となる。こんなところでしょうか。

少し飛躍しますが、そのように考えると良い古書店の条件というものが見えてくるように思います。それは古書のサイズを適切に測れること。そしてそのサイズ感をお客さんに納得させられること。いま尊敬する古書店主の方々を思い浮かべてみると、皆さんそれが出来ているなあと改めて思わされます。適切なサイズを測れるようになるためには、まだまだ努力が必要なようです。